冬の四十五日目。その日を、ディルツ王国では『恋人達の日』と呼ぶ。 女性が意中の男性に贈り物をし、想いを伝える日だ。王都中央市場は女性客で溢れ、グラナド商会も繁忙期を迎える。そのため、俺もしばらくは城を留守にしがちであった。やっと暇が出来たのは、『恋人たちの日』の前夜。 夜勤の門番以外は侍従達も寝静まった時刻、俺は厨房に立っていた。 「――というわけで! 俺は、マリーに贈るお菓子を作るっ!」 「なんでそうなるのぉ」 隣に立つ、料理長のトッポが呆れたように呟いた。 「……なんでって、何が疑問なんだ?」 「だって、『恋人達の日』は女性が男性に告白する日でしょ。旦那様は男性、それも王族に次ぐ地位たる公爵令息、この国一番の大富豪グラナド商会の大旦那で、マリー様は婚約者。わざわざ手作りしなくたって――」 「どうでもいいだろそんなこと」 俺はあっさりと言い切った。 「立場もイベントも関係なく、俺はただ自分が嬉しかったことを、マリーにも体験させてあげたいだけなんだから」 昨年、俺はマリーから手作りのチョコレートを受け取った。普段は控えめで受け身がちな彼女が、照れながら差し出してきた小さな包み。嬉しかった。あの喜びを、マリーにも与えたい、お返しがしたい……そう思って当たり前じゃないか? そこに性別など関係ないだろう。 トッポは一応、俺が贈ること自体には納得してくれたらしい。しかし『手作り』という部分にはかなり難色を示していた。俺の手元を後ろから覗き込み、 「……旦那様、ほんとにだいじょぶ? お料理なんてほとんどしたことないでしょ」 「大丈夫大丈夫」 俺は笑顔で頷いた。頭についた、白い粉を叩き落としながら。 「材料は多めに用意している。あと三回くらいなら、小麦粉をひっくり返しても平気だ」 「……トッポ、お手伝いする?」 「うん。頼む。助かる。ありがとう」 俺は素直に礼を言った。 ……そう、トッポの言う通り、お菓子作りは思いのほか難しかった。レシピにはさも簡単そうに書かれているのに、実際やってみると極めて繊細、かつ重労働。 「慣れれば手抜きしていいところや、何を抜いてもだいじょぶってわかってくるんだけどねー。旦那様みたいなへたぴっぴは、レシピ絶対ね」 「……悪かったな、へたぴっぴで」 出来上がった黒い物体を手に持って、俺はトッポを振り向いた。 「これ、なんとか食べられる状態にできないだろうか?」 「うん、脱臭剤や畑の肥料にはなると思うよ!」 「……それは良かった」 それでも、諦めはしない。俺は再度材料を確認し、またイチから作りはじめる。 ……レシピ遵守、きっちり計量……強すぎず弱すぎず、手早く……。 きっちりと量った溶かしバターを、小麦粉に注ぎ、混ぜ込んでいく。 ……俺は今までお菓子なんて、出来上がった物しか見たことが無かった。自分で作ってみようなんて、考えたことも無かった。 「こんなに難しくて、大変なものなのだな……」 「もうお料理、嫌になっちゃった?」 俺の呟きに、トッポが言う。俺は首を振った。 「いいや。プロの料理人の技術、偉大さをしみじみと実感した。昨年手作りしてくれたマリーにも、感謝の思いと、愛おしさが増したな。時々こうして、自分で経験するべきだと強く思ったよ」 俺の言葉に、トッポは「うふふ」と楽しそうな声を漏らした。 ――それからも、大いに手間取りはしたが、トッポがついていてくれたおかげで、作業は順調に進み……。 「――できた!」 焼き上がったクッキーを前に、俺は一人、歓声を上げたのだった。 「マリー、『恋人達の日』のお菓子、作ってみたから食べてくれ!」 そう言って、俺は両手に持った箱を差し出した。 マリーはパチクリ、瞬きをする。とりあえず箱を受け取ってから、しばらく俺の顔をまじまじと見つめていた。結構な時間を要してから、やっと「ええっ!」と声を上げた。 「キュロス様が? お菓子作りを……わたしのために⁉」 マリーは声を震わせ、感動しているようだった。その目に涙が浮かんだのを見て、俺は慌てた。 「そ、そんなに喜ばれると困る。箱を開けてみてくれ。きっと笑ってしまうから」 「笑ってしまう……?」 マリーは首を傾げ、白い箱を見下ろす。両手でなければ持てないほどの大きな箱だ。俺が蓋を取ってやると、マリーは中を覗き込み、そして再び、首を傾げる。 「クッキー……が。ひとつ、だけ?」 「箱に対し、明らかに不釣り合いな量だろ。ちなみに箱は事前に用意をしていた」 「……えっと。それってつまりキュロス様、たくさん失敗を……」 「うんそう。昨夜は徹夜して、この箱を五つ満杯にできるくらい挑戦したのだがな。……生き残ったのはこれだけだったんだ」 「えっ、徹夜……!」 マリーの顔が曇る。俺は笑って、マリーを抱きよせた。安心させるように頭を撫でてから、優しく囁く。 「笑ってくれ。笑顔が見たい」 「は、はい……ふ、ふふ。ふふふっ……」 まだぎこちない笑顔。俺はクッキーを摘まみ取り、マリーの口に入れてやった。たったひとつだけのクッキーを、マリーは目を閉じゆっくりと咀嚼した。大切に大切に味わって……。 「……ああ……とっても美味しいです」 目に涙を浮かべたまま、満面の笑みを浮かべてくれた。 クッキーを食べ終えたマリーは、空き箱をデスクに置きに行き、代わりに小箱を持ってきた。可愛らしくラッピングされたそれを、俺の手のひらにちょこんと置く。 「わたしも用意していました。一昨日、キュロス様が留守の間に厨房を借りて」 包みを開けると、中には小さなチョコレートがたくさん入っていた。 「あ、ありがとう……」 俺は礼を言ってから、マリーの作ったチョコを一粒摘まんで、食べてみた。 ……美味い。 マリーの手作りチョコは、既製品に遜色ないほどに十分、美味かった。しかも俺がちょうど好む甘さ加減で、彼女の調理技術と、食べる人への思いやりが感じられる。自分がさんざん失敗した後だからこそよく分かる。俺は苦笑した。 「今日はつくづく、自分の甘さを実感したよ。普段、何も考えずに出された物を食べていたのが恥ずかしい。料理人や職人、君への感謝と敬意で胸がいっぱいだ」 肩を落としてそう呟くと、マリーは、ふふっと笑い声を漏らした。 「そういうの、キュロス様のすごいところだと思います」 「……ん? 何がだ」 「しかもそれを自覚してないところ。当たり前にできるところ」 「だから、何の話だ?」 「そんなあなたが、わたしは大好きだっていうお話です」 クスクス笑いながら、踊るように身を翻して言うマリー。 「あなたの恋人になれて、わたしは幸せです」 くるくる回り、鼻歌まで歌って部屋の中を舞っている。心なしか頬まで赤い。 ……はて? クッキーの材料に、酒は入っていなかったはずだが。 ……とにかく、彼女が楽しそうで何よりだ。なんであれ喜んでくれたなら、それでいい。 俺は頭に小さな疑問符を浮かべながらも、踊る彼女に手を差し伸べた。 「どうせ踊るのならば、ふたりで一緒に」 彼女は微笑み、俺の手を取った。 冬の四十五日目、ディルツ王国にとってほんの少しだけ特別な日。 俺とマリーはほんの少しだけ特別な、だがいつもと変わらない時間を過ごす。 これといった理由も意味もなく、笑顔で愛を囁き、手を取り合って、静かに踊る。きっと来年も再来年も、似たような日を過ごすだろうと思いながら。
目を開くと、そこには美しい顔があった。 褐色の肌、彫の深い顔立ちに、エメラルドのように煌めく瞳。黒のロングテールコートに身を包んだ、我が婚約者、キュロス・グラナド伯爵――。 「おはよう、マリー」 「わ!きゃ!え⁉」 わたしは悲鳴を上げて飛び起きた。 ど、どうしてキュロス様がわたしの寝室に? なにこれ夢?わたしまだ夢の中にいるの? 両頬をペチペチ叩いて覚醒したけれど、やはりベッドサイドにはキュロス様が腰かけていた。わたしを見つめて、柔らかく微笑んでいる。 「お、おはようございますキュロス様。どうしてここに?」 「もちろん、君を起こしに来たんだよ。俺は今日、マリーの執事だからな」 「……は?」 突拍子もない理論展開に、思わず目が点になるわたし。 キュロス様は、太陽のように爽やかな満面の笑みを浮かべて説明を始めた。 「実は今日、ミオもウォルフガングも城を留守にしていてな。君の世話をする人間が誰もいないんだ」 「侍女と執事が、二人とも同時に、ですか?」 「ああ。普段ならお互い示し合わせて休暇を取るのだが、今回ばかりはどうしてもタイミングが重なってしまった」 ……それは、珍しいこともあるものね……? 侍女と執事は、主にとって特別な存在だ。両者にも違いはあるけれど、共通するのは『主専属の、特別な侍従』であること。メイドやフットマンのような雑用はせず、主のスケジュールを管理し、留守中には代役となり、賓客の応対、王侯貴族の公務までサポート。さらには主の精神的な悩みにも寄り添う。 ゆえに二人のうちどちらかは、常に城内にいるのが基本……なのだけど。 「……まあ、そういうこともあるのでしょうね。では今日はわたし、自分のことは自分で」 「マリーのことは俺がやる。つまり今日一日、マリーの執事だ」 「あのそこのところの理論展開が全然さっぱりわからないのですがっ⁉︎」 わたしが叫ぶと、キュロス様はハッハッハッと爽やかに笑った。 「俺は以前、君の侍女役をしたことがあったろう?二人の間にまだ距離があった頃、親しくなるための手段として」 はい、あの時はドキドキしすぎて心臓が壊れるかと思いました――と言いかけた言葉を飲み込む。キュロス様はさらに続けた。 「要するに、あれのやり直しだ。本当に、当時は悪いことをした。まだマリーが俺への警戒心を持っていたのに、勇み足で距離感を詰めてしまい、かえってぎこちなくなってしまった。俺は反省と、後悔をしているんだ」 「……ご理解いただけたならば何よりです……」 「だから今回こそ、程よい距離感を保ちつつ、俺は君の執事になる」 ――いやだからその展開が全然さっぱり本当になんにも理解できません! 「とにかく俺はあの日の続きを、もとい、リベンジがしたい。むやみに体に触れたりなど一切しないから、どうか今日一日は付き合ってくれ――いや。お付き合いを、よろしくお願い申し上げます。お嬢様」 そう言って、キュロス様はわたしの前で紳士の一礼をしてみせた。 それからわたしの髪をひと房つまみ、そっと、口付けて。 「さあ、そろそろベッドから起きてくださいませ。その美しい髪を、わたくしめが整えて差し上げましょう」 「……執事は……お嬢様の髪に、キスをしてはいけないと思います……」 儚く無駄な抵抗をしながら、わたしは全身を赤く染めつつも、とりあえず身を起こしたのだった。 そうして始まった、キュロス様の『一日執事ごっこ』は、驚くほどに本格的だった。 彼には上級貴族の教養があり、大抵のことは何でもできる。つまり城主でありながら、執事役を完璧にこなすこともできるのだ。 彼はまずわたしの髪を完璧に結い上げると、衣装部屋から一着のドレスを持ってきた。 「お嬢様、本日のドレスはこちらをどうぞ、お召しくださいませ」 「……ピンク……それにフワフワのプリンセスドレスですか……?あの、そんなに可愛いのはわたし、似合わないと思うのだけど」 わたしは言った。 男性の平均並みに背が高く、愛嬌の無い顔立ちのわたしには可愛いものなど似合わない――そう、両親から言い聞かされて育ってきた。 そんな呪いの言葉から解き放たれた今も、わたし自身の審美眼でそう思う。 貿易商で、貴婦人の衣装にも目が利くキュロス様が分からないはずがないのだけど……。 しかし彼は首を振り、わたしの手を取って微笑んだ。 「大丈夫。このドレスはラベンダーとシルバーの糸が仕込まれていて、大人の女性にこそよく似合う。シルエットも体型に合い、君の美しさをより際立たせるだろう」 「……。わかりました。ではわたし、挑戦してみます」 わたしが頷くと、キュロス様はニッコリ笑って退室していった。 ひとりで着替え、鏡の前に立ってみる。 ……あ……ほんとだ。確かに、変じゃない。むしろ似合っている……かもしれない。 キュロス様のおっしゃったとおり甘くなりすぎない色味で、わたしの肌や髪の色にも馴染んでいるようだった。 わたしはキュロス様を部屋に呼び戻すと、スカートを広げ、一度くるりと回って見せた。 「すごいわ。キュロス様って、ドレスのセンスまでおありなのですね」 わたしが言うと、クスッと小さく声を漏らし、笑った。 「いいえ、これはお嬢様限定の能力です――俺は毎日、貿易(しごと)先で色んな商品を目にするたび、マリーに似合うだろうかと考えているのだから」 朝食を摂るため食堂に入ると、テーブルには二人分の料理が並べられていた。しかしキュロス様はわたしの背後に立ち、わたしのグラスに飲み物を注ぎ、カトラリーの交換までしてくれる。懇切丁寧な仕事ぶりに、わたしは苦笑して彼を振り向いた。 「キュロス様、給仕は執事ではなく、キッチンメイドの仕事ですよ」 「そうか?まあいいじゃないか、役割分担なんて」 きっと理解しておられたのだろう、キュロス様はしれっとした表情で言う。 ついでにいつの間にかすっかり敬語も取れて、いつもの口調。つまり彼は彼自身の本心として、ごく当たり前のように口にする。 「君の身の回りの世話は、全部俺がする。君の希望を聞き、すべて叶えて見せる。今日はそれが楽しみ――もとい、俺の仕事なんだから」 「ふふ……そうですね。では、忠実なる執事さん、わたしの願いを聞いてくださる?」 彼は一瞬、怪訝そうな顔をしてから、頷いた。 「ええお嬢様、どうぞ、なんなりと」 「わたしひとり、食事をしているのは寂しいわ。隣に座って、一緒に食べてくださらない?」 わたしは笑いながら、自分の隣の椅子を引いて見せた。彼は緑の目を細めると、悪戯っぽい笑みを浮かべた。胸に手を当て、大げさな動きで首を振る。 「いいえお嬢様、ワタクシはしがない侍従。お嬢様と食事を共にするなど恐れ多いことでございます」 「あら、主人のいうことが聞けないの?」 「とんでもありません――ああ、ご命令とあらば仕方がないですね。それでは、失礼いたします」 そう言って、彼はわたしの隣に腰かけた。 ナイフとフォークを手に取って、自分用の食事を食べ始める。一口、口に入れてから、ホッと顔をほころばせた。 「……美味い。実は、ずっと腹が鳴りそうなのを堪えていた」 「でしょうね」 わたしは笑って、彼のカップにお茶を注いだ。 「あなたが執事になって、ずっとわたしの後ろに控えていてくれるのは、心強いけど……それより隣に座ってほしいわ。一緒に、対等な立場で」 湯気の立つカップを彼に差し出し、自分用にもおかわりを注ぐ。そうして同じ温度、同じ量のお茶が入った二人のカップ……わたしは笑って、カップを持ち上げた。 「あなたと同じ時間を過ごしたいの」 「……マリー……」 キュロス様の手が、わたしの髪をひと房つまむ。だけど彼は髪にではなく、わたしの顔に口付けた。小さく音を立て、頬と額に柔らかな唇を押し当てる。それからわたしの顎に指を添え、少し角度を持ち上げて――。 ――と、その時だった。 「旦那様」 背後から、聞きなれた老紳士の声がした。 「――ウォルフガング!」 「なにっ⁉」 キュロス様は悲鳴じみた声を上げ、慌てて背後を振り返る。 「な、なんでウォルフっ……なぜここにいる⁉今日は暇を出したはずだぞっ!」 「ええ、ありがたく朝寝坊をさせていただきました」 半眼になったウォルフガングが低い声で言う。 「それで、これから孫と街へ出かけようかと。自分の留守中、ミオ様に城をお願いしますと連絡に行ったところ……」 「ちょうど、同じ用件でウォルフを訪ねた私とバッタリ、廊下で遭遇した次第です」 ウォルフの後ろからひょこっと顔を出す、小柄な女性。侍女のミオである。 キュロス様は額に汗を垂らし、はははっと軽やかに笑った。 「そ、そうか。それはそれは……二人とも、責任感が強いというかなんというか、ご丁寧なことで……」 「お褒めいただき有難き光栄」 「で、それはそうとして旦那様。これはどういうことですか?」 ミオの青い瞳がギラリと煌めいた。 ひっ、と息を呑むキュロス様。 「あ、ああ、ええと」 「私に今日、休暇を取れと勧めたのは旦那様ですよね。ウォルフとツェリがいるから大丈夫だと言って強引に。……それでウォルフにも暇を出していたのは、一体どういうおつもりで」 キュロス様は血の気を引かせ、少しでもミオから距離を取るようにのけぞった。 「い、いや……あ……その」 侍従二人に睨まれて、キュロス様はゆっくりと席を立ち、じりじりと後ずさった。 「ええとそれは、その……ええと……あの」 じりじり逃げるキュロス様、じりじりと寄って行く執事達。 「それはその――ええと。――ごめん」 「ごめんで済んだら、執事は要りませんぞ!」 ウォルフガングの怒号が飛ぶ。そして始まる、長く厳しいお説教タイム――キュロス様は今度こそ震え上がり、きちんと、本気で謝った。 わたしはそんな三人を、クスクス笑って眺めていた。だって今回はわたし、なんにも不快な思いをしていないもの。 キュロス様ったら、馬鹿ね。侍従達を出し抜く画策なんてする必要ないのに。 わたしはもうすっかり彼に心を許している。わたしの髪や肌だって、彼ならばいつでも、好きなだけ触れることができる。わたしは委縮どころかむしろ嬉しくて、幸せな気持ちになって……さらにずっと、彼への想いが高まっていくだけなのに。 でも、そのことは教えずにおこう。 キュロス様がわたしを喜ばせるため頭を捻ってくださることが嬉しいし、次はどんな突拍子もないことをしてくれるのか、これからも楽しみにしているからね。